ふるさと
(やたかやまとこうやまいち)
弥高山と高山市(中町、下市方面) |
わがふるさとは岡山県南西部にある後月郡芳井町(もうすぐ井原市に合併)の北の端、すぐそばに川上郡川上町いえ、ほんの1月ほど前高梁市に再編された地区と接しています。
この山は弥高山、海抜654m、(高梁市側)。別名、飯(いい)の山ともいわれるようにこんもりご飯を盛ったようなまあるい死火山です。
この地区のシンボルでもあり、住み続けるひとにも遠く離れて暮らす出身者にも、いつまでも変わらぬ心のふるさととなっています。
先日法事のために帰省し、パチパチと写真を撮ってきましたのでどうぞご覧ください。
弥高山からの眺望
山頂より 東 | 南 福山、笠岡沖の海が見えます。 |
西 高山市全景 | 北 中央の大きい山の左肩に冬には大山が |
北東 このように360度視界が開けています。 | 頂上に立つ石塔 子供の頃この石の間に白蛇 が棲んでいるとかいないとか。こわごわのぞきこ んだものです。 |
←ほら みなさん逆光ねらいです。 周りは一眼レフのカメラを抱えているひとばかり。 私はちっちゃなデジカメながら真似して逆光で撮 ってみました。 |
高山市
こうやまいち
実家の裏の道 右は後月郡左は高梁市 どこからでも弥高山が見えます↓ |
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高山市(こうやまいち) 上市(かみいち)は火災にも遭わず築百数十年の家が続きます。山の上で水が不充分なため、かつて大火災がおき、中町、下市の多くは焼失したそうです。 |
昔、穴門山神社の門前町として、また周りの集落の市場として栄えたそうです。それぞれに屋号がついていて「博労座」という馬市の名残の家もあります。(ばくろうざ)*下 欄外参照 私の子供の頃は店も結構あったのですが今はほんの少しだけになりました。(中央、家の間に弥高山)↑ |
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路地 白と黒のモダン |
実家 どの家も昔の店のつくりなので間口は狭く敷地は奥へ長く続きます。中庭がありさらに家があったりするのですが、だんだん朽ち果てて母屋だけが残りました。大きな栗の柱を使っているのでまだしっかり立っています。ただ何度も手を入れています。 |
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金比羅様から見たいらか(甍)。多くの家は赤い石州瓦*を使っています。↑ |
*博労座(ばくろうざ)
博労とは・・・馬の善悪を鑑定する人。馬の病をなおす人。また、馬を売買・周旋する人。「馬喰」とも
書く。
( 新村 出編『広辞苑』による。)
*石州瓦・・・石見(いわみ)の国(島根県西部)特産の瓦 重い瓦を、昔、どうやって運んだのだろう?
主のいない実家の庭に、それでもそっと咲き続ける花や実
キク 名前は? | ひっそりとツユクサ | ヤブコウジ | のじぎく? |
オビトケノコンギク↑(2004年11月21日)
いつも訪問させていただいているZephyrusさまのHPのトップの最新画面によく似た花をみつけました。グッドタイミングです。その名前を手がかりに検索してみましたらほぼこれにまちがいないと思われます。
ふつうの園芸種でないところがいかにも母らしい。郷里に帰って私がじっくり庭を見るようになったのはやっと最近のことです。山野草にくわしかった母はもうおりません。母の遺した『牧野新日本植物図鑑』にはこの名前のノコンギクは見つけられなかったのですが、「ノコンギク」のページにこれらしい変色した押し花をはさんであったのでびっくりしました。
野の花を求めて
お気に入りの写真
きれいな色 何? | 夏の名残・・・ルドベキア |
弥高山は寒さが厳しくなると幻想的な風景、霧の海を見ることができます。
当日の温度やお天気に左右されるので運がありますね。今回は滞在中一日だけ期待がもてたのですが、残念ながら、わずかにうっすら、ほんの少し・・・
せっかく弥高山を取り上げるからにはとロッジ前の看板と掲示してある写真をデジさせてもらいましたので載せさせてください。撮影者は書いてありませんでした。
こんなものということを是非みなさまにみていただきたいです。
2004年11月13日朝8時頃
山頂から東方向 中央の白いのは煙、その右にうっすら二すじ見えるのが霧です。
目的はコレだったのですが・・・↓
立看板の写真 ロッジに掲示してある写真(撮影者不詳)
2004年11月13日
それは思いもかけないことだった。車で町へ買い物に出かけた時、昔の村の中心地、私が通った小学校のあった付近でふと聞き覚えのあるカーン、カーンというカネの音に、大勢で太鼓をたたく音。
あっ お祭りだ!すぐに車をとめてもらい、八幡様へ走った。昔の勝手を知っているつもりで近道をした。畑はもう原野にもどり、草の実を服全体にくっつけて、蜘蛛の巣に頭からつっこんで走った。
そこには何十年ぶりかに見る鳥の羽根でつくったかぶりものをつけた、華やかな衣装の渡り拍子があった。
過疎がすすんで若い者が減り、とりわけ子供が少なくなって、何年か前に小学校は廃校になった。でも太鼓のなかに一組子供のグループがいてほっとするやらうれしいやら。
この渡り拍子は岡山県の重要無形文化財になっている。備中から備後にかけて残存しているようだ。花笠をかぶるところもある。この歴史については何も知らないが、村に住む人々にとって一大行事であり、楽しみでもある祭りの渡り拍子をぜひとも後世に伝えたいものである。
夢中で写真を撮ったけれどこんな時に限って残存枚数が10枚ほど・・・あまり良い写真ではないけれどご勘弁下さい。
糸崎八幡神社 (後月郡芳井町西三原)
もう一つ中山天神社(東三原)でも行われている。
やる気のない鬼・・・昔、鬼に追いかけられて逃げ回っていたんだよ。私。
ほんとだ。この鬼やさしい顔をしている。手に持つ紅葉が本物なのがいい。
つっ立っているから何時撮ってもちゃんと写るのだ。
躍動
追記(2004年11月18日)
この渡り拍子について、同郷の大先輩、博学のSHIGさんにお尋ねしてみました。SHIGさんも郷里を離れて久しいかたですがこの鳥の羽のかぶり物は「シャグマ」と言って「赤熊」と書くということをご存じでした。そしてネットで見られることも教えて下さいました。
http://www2.cc22.ne.jp/~otoya/4-gakuuchi/4-03yoshii/4-03miharawatari.html
なんとムービーと音入りでページが作ってありました。便利な時代になったものです。
そこに簡単に歴史が書いてありましたので引用させていただきます。
渡り拍子は、御神幸の先払いとして行われる神儀ですが、手拍子・足拍子をとって歌う踏歌の一種で、闘鶏楽でもあり、鎌倉・室町幕府の行っていた行事が地方に広がったもので、1年の豊作を感謝し平安を祈る行事となったものと言われています。
この、1つの太鼓を4人が打つ形態は、「渡り拍子」「頭打ち」「庭打ち」として、岡山県西部から広島県東北部にかけて、広く伝わっています
上に「鬼」と書いた者は「猿田彦」だそうです。間違えていました。だったらじっと突っ立っていてもいいのかも・・・
猿田彦さんごめんなさい。でも子供のころ家の中まで追っかけてくるこわーい鬼がいたのです。。。
鳥の羽と書きましたが尾長鶏の羽でできているのですね。
追記(2004年11月26日)
知人のmokuraiさんのふるさとの渡り拍子の写真を見せていただきました。同じ備中ですが少し離れたところで、ここでは花笠をかぶるそうで、豪華なつくりの笠や衣装、色とりどりの鮮やかな布を流し、お面も伝統を感じさせられます。上のシャグマといっしょにぜひご覧頂きたく、お借りしてきました。
高梁市成羽町坂本の祭りです。
上の弥高山の山頂から見た北方向の写真、「中央に大きい山」というのが天神山(778m)でその右(東)ふもとのあたりです。かなり遠いですね。今でこそ車ですぐに行けますが・・・
ここでは渡り拍子のことを「チンガンガン」というそうです。この言葉は私は初めてでしたがカネの音が祭りを代表するように誰の心にも残るものとしてよく理解できます。
少し距離が離れていると形態も少しずつ違ってくるのでしょう。それこそがその土地独自の文化の伝統でもあり、興味
深いところでもあります。
mokuraiさんによると
「祭りの今一つの特徴として 獅子舞があります 普通獅子の舞は大人しいのが大半ですが坂本地区のは猿田彦の面を被った人が長刀で獅子を襲う 獅子は此を避けて舞うと言った激しい物です」とのことです。
花笠が華やかですね。このお面はだれでしょう。 |