2005年1月17日
それぞれの10年
神戸に住み、あの地震を経験した私は、今、静かににあの日のことを思い起こしています。
一口に10年とは言いますが、神戸にとっては悲しみや苦しみをひきずりながら、それでも復興にむけてみんなが努力を積み重ねた10年でもありました。私は、この街のにぎわいと、人々が元気な笑顔を取り戻していく様を見、感じてきました。私の家は須磨でも北部にあり被害が比較的少なかった地域ですが、長い間水道やガスのない不自由な生活が続きました。全国から駆けつけてくれた給水車のナンバープレートを見て「今日は広島のお水をいただいた」「今日は横浜よ」と近所のかたと言葉を交わしながら、みんないい笑顔をしていたなと思い出します。みんなに支えてもらっていることを感じた時の安心とおだやかな明るい笑顔。
定点観察・・・街の復興
これは私のカメラで撮った定点の比較写真です。
震災直後交通が寸断され、また復興のさまたげになることをおそれ、三宮の様子はテレビや新聞で見るだけでした。しかし、職場に復帰した2週間後(歩いたり、バスをいくつも乗り継ぎ何時に到着かもわからないような通勤)三宮に足を延ばしました。2月2日のことです。神戸を代表する中心地の建物のあまりに変わり果てた姿に息をのみ、夢中で写真を撮りました。記録しておかねばと駆り立てられるように。
ただ個人の家にはカメラを向けることが出来なかったのでその写真はありません。焼け野原になった長田や高取駅周辺、焼け出された知人を訪ねて行った小学校で廊下の両側に布団を敷いて寒さをしのぐ人たち、いつも行く郵便局の横の道路をふさいで崩れ落ちた家、ガレキのなかにそっと置いてある花束・・・。この目で見たことをしっかりと記憶しておきたいと思います。
95/02/02の写真は普通のカメラで撮ったもので、スキャナーで取り込みました。画質が落ちていますがお許し下さい。右の今の写真はこの1月13日、同じ角度になるように注意して撮影しました。
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JR三宮南西 交通センタービル | 全面建て替え | |
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JR三宮向かい そごうの北側 | 中央部分大幅改築 | |
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銀行 こういう砕けかたのビルが多かった。 | 低層階のまま | |
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神戸新聞会館 JR三宮東 | こわされたまま ( 工事中?) | |
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まんなか ダイエー1号店 | 駐車場になっている。手前のビルも建て替え |
神戸新聞あの日の夕刊・・・復刻版 1995年(平成7年)1月17日火曜日
さんちかホールで開催されている「未だ風化せずー震災10年 報道と記録展」でいただきました。
新聞社自体が壊滅的な被害を受け、京都新聞の力を借りてやっと発行できたそうです。
この段階では「死者203人、行方不明者331人」となっています。
『報道写真集』は神戸新聞社2004・12・24発行
助けろ!力を合わせて。もっとも印象に残った写真 | 生々しくよみがえります。 |
これが当日の神戸新聞、復刻版です。 |
ガレキに花を!
更地が目立つ街に「ガレキばばぁ」を名乗る人が現れて、片っ端から花の種を播いて歩いたそうです。
目のつけどころがスゴイと思いました。芽を出し、ぐんぐん大きくなりやがて花を咲かせる。
花達はどんなにたくさんの人を励まし元気づけたことでしょう。
これは運動としてかなりひろがったようです。神戸の復興、まちづくりにおいて、特筆すべきことだと思います。
さてこの「ガレキばばぁ」さん、どんなかたかとおもいきや、楚々として美しく、若々しいご婦人でした。その名前との落差にまたびっくり。ほんとうに忘れられない女性です。
そうそう、どんなにして播いたかって?培養土の中に種をまぜて土と一緒にばらまいたそうですよ。
このお話を紹介するにあたって、どうしても次の写真をお借りしなくてはなりません。
神戸新聞さま、ご配慮のほどよろしくお願いします。
展示されている写真です。会場で許可を得て写しました。 (神戸新聞社カメラマンの撮影で、新聞に掲載された写真です。) |
1月17日三宮、東遊園地にて
鎮魂 6433本の竹筒にあかりが灯されています。そして 1・17の字が浮かび上がります。 「希望の灯り」「つながっている」「20歳になった」 「感謝」「夢」「復興」・・・思い思いの言葉が書か れていました。 |
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向こうは神戸市役所 母と子の雪地蔵 |
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はるかちゃんのひまわり |
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きょうは夜明け前から雨。「亡き人々の十年分の涙が空から落ちてきた。」と神戸新聞は書いています。
各地で様々な追悼と復興を願う行事がおこなわれたようです。わが娘も勤め先の労組の「復興ウォーク&クリンリネス」に参加するため、静岡から帰ってきました。あの日娘は神戸におりました。今日、どんな思いで歩いたでしょうか。
「虹がかかったよ。きれいな虹が」喜々として話したあとは疲れからかしばし眠り、晩ご飯を食べてすぐ新幹線で行ってしまいました。